
本は絶対に紙じゃなければ嫌。そう思っていた私だが、ある小説をオーディブルで聴いたとき、考えが変わった。
「私の選書は偏ってるのかもしれない」
読書を続けていると、自然と「選書のクセが」ができてくる。
好きな作家、好きなテーマ、好きなジャンル。
そこから外れる本は、よほどの理由がなければ手に取らない。
気になる本があっても、「買ってまで読むのだろうか?」という一定のラインを超えられなければ、購入には至らない。
好き故に偏る
この問題の解決に一役買うのが、オーディブルを始めとする、オーディオブックなのだ。
選書の偏りはこうして生まれる
これは私見だが、選書の偏りとは下記のような要素が絡み合って生まれるものだと思う。
- 著者のファンになる
- 興味関心の偏り
- 予算は限られている
好きな著者や作家のものは集めたくなるし、興味・関心があるジャンルばかりを買うのも当たり前だ。そして何より、予算は無限ではない。買える量には限りがある。
自分の時間とお金を使って、興味・関心の外にあるものに触れ、受け入れ、理解することは、忙しなく動き気力・体力を大量に消費している現代では、難しいことのように思える。
※偏りがあることは悪いことではないし、誰にでも起こりうることである。
そもそも本を読むとは何か?
「本を読む意味」で検索すると、次のような言葉に出会った。とても良かったので、紹介したい。
本を読むとは自分の世界観と違う相手の世界観を、自分とは違う質の言語によって受け入れるようなもの
引用元:本を読むことの意味をネット全盛の社会の中でもう一度考えてみた | すい喬Blog
「本」を読むこととは、自分とは異質な世界との出会いだということだ。他者の考えに触れる、という言い方をする人もいるし、「未知との出会い」とも言えそうだ。
SNSなどの世界は、自分の興味に最適化された情報のみが飛び込んでくる。
「本を読む」ことは、現代において、世界の外側に踏み出す行為なのかもしれない。
自分の外側へ出るための手段としてのオーディブル
オーディブルを始めとするオーディオブックサービスは、偏った自分の世界から外へ出るための手段として使える。
その理由はオーディオブックならではの気軽さだ。
例えば、気になるけど買ってない本も、自分では絶対手に取らない本も、クリック1つで耳から聴ける気軽さ。
読み放題対象作品なら、「買う」という過程を飛ばして、作品を味わうことができる。買う買わないの選択がないのは、想像してたより遥かに心理的コストが軽いことを、身をもって体感している。
また、「耳から聴く」こと自体が、読書の難易度を下げる。
本を読むことが異質な世界に「正面からぶつかること」だとすれば、耳から聴く読書は、その世界を「遠くから眺めること」のように思える。
本と本気で向き合うのは疲れる。でも遠くから見るだけなら割と簡単に取り組める。これらの気軽さが、外の世界への入口になる。
オーディオブックには、紙の本とは違う魅力や効果があるのだ。
なぜオーディオブックサービスを避けていたのだろうか
私はしばらくのあいだオーディオブックを避けていた。
理由は明白だ。
「変化することへの抵抗」があったからだ。もっと端的に言うと、慣れ親しんだ紙の本から、新しいスタイルへ移行することが「めんどくさかった」からだ。
「読む」という行為に慣れすぎていて、その形を変える必然性をまったく感じていなかった。
「慣れ」は自分の世界を狭める、ということを改めて認識させられた。
自分の期待が心地よく裏切られる
私はビジネス書や自己啓発書をよく手に取る。小説はあまり読まない。それでもオーディブルを使うようになって、少しずつ小説を読む(聴く)ようになった。
小説を聴いていると、無意識に次の展開やセリフを予想している自分に気づく。そして、その予想は大抵裏切られる。わざとミスリードされている可能性もあるが、それでも驚く。
慣れきった自分の世界(偏った選書)だけで読書をしていたら、こうした「予想外」に触れることはきっと少なかっただろう。予測できないということは、それだけ自分の世界が狭かったのだと実感する瞬間でもある。
そして、この「驚き」を含めた「感情の揺れ」が読書の楽しさだと再認識した。
まとめ
オーディブルを始めとしたオーディオブックサービスは、紙の本の代わりになるものではない。そもそも用途が違うものというのが、使ってみた感想だ。
私にとっては、狭い自分の世界を広げてくれるツールだ。紙の本と並行しながら使うのがとてもしっくりきている。
ただ、ここで書いたのはあくまで私の感想だ。
オーディブルについては、さまざまな評判や意見がある。
それらがどこまで本当なのか、自分で確かめた記事も書いている。
👉【徹底検証】オーディブルの評判・口コミを実際に使って確かめた結果
興味があれば読んでみてほしい。